(Source: bloodyr0ses)
日本の教育について。
昨日イスラエル人と話していて、ふと気づいた。
ちなみに彼はイスラエルで日本語と日本文化を勉強しているそうだ。
彼が言った。
「日本の小学校のテスト問題は変!」と。
僕は何が変なのか問うてみた。
「だって、イスラエルでもアメリカでも、テストの回答で求められるのは『筆者の意見』ではなくて、自分の意見だよ。日本は違うんでしょ?」
なるほど・・・そう言われれば確かにそうだ。
僕らの教育では大学受験ぐらいまで、
国語の現代文なんかは、『あなたはどう思いますか?』と問われることはなく、
『筆者はどう思ったと思いますか?』という設問ばかりな気がする。
イスラエル人の彼はwhy!?という目で僕を見つめていた。
僕は即興で回答してみた。
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日本人はね、小さな頃から家庭や学校などで、こう育てられるんだ。
「相手のことや周囲のことを、先ず最初に考えなさい。
自分がすることで他の誰かに迷惑をかけないのかどうかを考えなさい。
いつも他人の気持ちがわかる人で在るように。
自己中心的な考え方をしてはいけないよ。」
だから、義務教育の中でも、
誰かの立場になって考えることをトレーニングしているんだよ。
いつでも、どんな時でも、
相手のことを思いやれる人間を目指すのが日本の教育なんだよ。
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イスラエル人の彼はめちゃくちゃ驚いていたし、感心していたようだった。
「ああ、アメリカ人やイスラエル人はだから自己中な人多いのかな?」とつぶやいていたのが印象的だった。
「フローとストックが混ざっている」「情報に新しい視点を与えている」のが雑誌的なコンテンツです。
本当に、学ぶために「自分を閉じ込める」のが難しい時代になってきたような気がしますね。特にインターネットがごく日常的なものになってからは、学びに関してだけでなく、深く一つのことに関わることは、意識的な「選択と集中」をしないと、とてもできない。ツイッターの世界などに触れていると、つくづくそう思います。
(中略)
もしかすると、「自分を閉じ込めて深く学ぶ」という学び方以外の「新しい学び方」を、僕たちはもっとポジティブに模索し、受け入れていかなければならないのかもしれません。たとえば、「塵も積もれば山となる」ように、大きな目標達成のために、オープンでミクロな学びの積み重ねが可能なのか。個にとっては、どうなのか。教育的なコミュニティとしては、どうなのか。